8月のある朝、マンハッタンの対岸にあるニュージャージーからフェリーに乗り、自由の女神のすぐ近くにあるエリス島に出かけた。大学で教えている生徒達とフェリーに乗り込み、一番上のデッキに上がった。
このフェリーが動き出すと、以前はあの世界貿易センターを中心としたダウンタウンのスカイラインが、あの圧倒するような光景が、目前に突然浮かびあがったものだ。まるで映画のスクリーンのように。それが今はその部分だけポッカリ穴が空いたかのように青空だ。
「どうしてこんなことになったのか、今までクラスで討論したりしてきたけれど、やっぱりやりきれない。」生徒のひとりがぼんやりとダウンタウンを眺めながら、つぶやいた。
世界を震撼させたあの衝撃的な日からちょうど1年。その日、世界貿易センターの崩壊と共に私達の愛する人々は姿を消し、ダウンタウンは地獄絵と化した。
測りしれない苦しみや悲しみ、怒り、憎しみ、絶望感、恐怖感。あらゆる感情が街中、いや、国中を襲った。
3千人近くが帰らぬ人となった。その多くが誰かの父親、母親、兄弟、姉妹、夫、妻、そして息子、娘であった。また多くは外国人の駐在員を含む移民達であった。
銀行員やトレーダーなどの華やかな仕事とは限らない。清掃員、ビルの業務員、警備員、階上レストランのウエイター。そして自らの命を犠牲にして、救助に向かった消防士達。あらゆる職業のあらゆる人種の人々が、瞬く間にビルの崩壊に埋もれてしまった。
「がれきの下でお父さんがまだ絶対に生きている。」「どこかの病院に運ばれてきっと治療を受けているのでは。」悲痛な声があちこちで聞かれた。
"Have you seen this person?"(この人を見かけませんでしたか?)
と書かれたビラには、スーツ姿で微笑む男性の写真が。ビラを配る女性の顔は、皮肉にも写真の笑顔とは全く対象的だ。もう何日も寝ていないのであろう、目は泣きはらしたように腫れ、落ちくぼみ、ほおはこけ、顔色は死人のように白い。
がれきは何千の遺体を抱えたまま何週間か燃え続け、その煙はミッドタウンまでもを死臭で覆った。
マンハッタンで日本人家族の教育活動も行っている私は、世界貿易センターに勤める何人かの日本人駐在員のことを思い出した。あの会社は確か80何階じゃなかったか。A子ちゃんのお父さんもあそこのオフィスじゃなかったか。まさか、みんな死んでしまったのだろうか。
夜のマンハッタンは世界貿易センターの影も形もなく、不気味な煙が夜空に上がっていた。
私の以前の生徒で、父親が世界貿易センターに勤めていた子がいたが、やはり行方不明ということだった。たぶんもうだめだろう。女の子ひとりっこで、まだ14歳なのに。言葉では言い現せないほどの打撃と悲しみ、怒りがこみあげた。
犯人達は絶対に許せない。何があっても捕まえて死刑にしてほしい。アメリカはすでに戦争ムードで湧いていて、それは外国人である私にある種、複雑な感情をもたらした。
あまりにもここが危険になるようであれば、本気で日本に避難することも考えなければ。しばらくはマンハッタンの自宅にいても、飛行機の音を聞いただけでドキドキした。事件以来、飛行機の音がやたら大きく聞こえるのだ。映画館やデパートなど人が集まるところは避けた。いつでも夫に連絡できるように携帯電話を買った。いけないと思いながらも、アラブ系の男性を見る度に「もしや?」と疑った。
しかし、これらは全く正常な自己防衛のための反応だったのだ。
あれからニューヨークはなんとか平静を取り戻し、人々は普通の生活に戻っていった。
しかし表面的には癒されても、深い心の傷と姿の見えない恐怖は存在しつづけている。
コロンビア大学などの研究によると、この事件の半年後、ニューヨーク市に住む子供達の11%にPTSD(心的外傷後ストレス障害)の症状が見られたという。これらの症状としては、「事件のことを度々思い出す」「不眠」「集中力の減退」、また、ティーンエイジャーになると、たばこや飲酒が約10%も増えるなどの影響が出たという。これにはもちろん現地の日本人の子供達も含まれている。
なぜ米国がテロの標的にされたのか、どうしてこんなに多くの罪のない人がいとも簡単に殺されたのか。被害者の家族にはどんな援助をすればいいだろうか。
現地の中学や高校のクラスでは、生徒達にこのような討論をさせ、作文を書かせ、みんなで励ましあった。
これはテロの構図や世界の政治状況を把握するためだけでなく、子供達が不安や恐怖感、怒りなどを内から外に表現し、お互いわかちあうことによって精神的な傷をいやすためでもあった。
しかしこの事件は、忘れるにはあまりにも強烈で、子供達を恐怖のどん底につき落としたのだった。
去年高校生だった南米出身のある男の子は作文にこう書いていた。
「あの日、教室で先生が何が起きたかを説明した。みんなショックだったけど、落ち着くように励まし合った。でも廊下に出ると、ある生徒がひとりで泣いていた。よく見るとぼくの親友のひとりだった。お兄さんが行方不明になっていた。いたたまれなくて、どう声をかけたらいいのかわからなかった。」
またある日本人の中学生の女の子はこう綴った。
「みんなが学校から携帯で親に電話していた。その後次々に親が迎えに来て抱きしめて帰っていった。私はちょうど母親が不在で、父親の仕事先の電話番号も知らなかったので、ずっとひとりで残っていた。ちょうど友達のお母さんが来ていたので、一緒に連れていってもらった。その後ひとりで家に帰った。不安でいっぱいだった。」
親の生と死の境という現実をつきつけられたアメリカ人の高校生もいた。
「母が世界貿易センターで働いていた。事件当日、命からがら逃げて帰ってきた。数分後にまだビルの中にいた人達はみんな死んだ。さっきまで目の前でコーヒーを飲んでいた人々が。母は今でも悪夢を見る。」
子供達の不安は1年後の今も消えない。
同時テロ1周年の今日、追悼式などあらゆる式典が行なわれている。
グラウンドゼロの四角い跡地には遺族達が降りたち、黙祷をささげ、犠牲者ひとりひとりの名が読み上げられた。前日の天気とはうって変って、強風がゴーゴーと音を立てて砂ぼこりを上げている。まるで3千人の死者の霊がさまよっているかのようだ。
今日のニューヨーク・タイムズを開くと、彼等全員の顔写真が何面にも渡って印刷されていた。こんなに多くの人が死んだのか、と改めて思い知らされる。
ニューヨーク市以外でも、ニュージャージーやウエストチェスターなど、多くの父兄を失った学校が特別な追悼式を行なっているという。
また今日も何らかのテロ攻撃の警告が出され、街中が厳戒体制だ。テレビでは様々な特集が組まれ、当日の模様が再現され、あの悪夢がよみがえる。私たちの癒されかかった傷口を再び開くかのように。
日本を含む海外のメディアからは、犠牲者には同情するものの、米国がテロの標的にされたのは、米国にも原因があるのではないか、という意見がよく聞かれた。本当にそうなのかもしれない。
米国はテロが拍車をかけて、ますます好戦的になっている。近々起こるといわれているイラク攻撃も非常に心配だ。
しかしこのような被害にあい、今でも苦しむ人々や子供達に囲まれている状況では、もはやそのような政治的論争は問題ではなく、外からの批判的意見も人ごとのようにしか聞こえない。罪のない人々への暴力は正当化できないし、子供達には憎しみを教えるべきではない。
ただこれが自分の国であったとすれば、自分の家族や愛する人が殺されたとしたら、「それは自分達に問題があったから殺されたんだ。」と平気な顔をして誰が認めることができるだろうか。少なくとも子供達には理解などできない。
このような論争が続く中、あるひとりのアメリカ人生徒の意見が印象深く残った。
"People can debate over the issue over and
over again, but until they become the real victims, their arguments cannot
be fully validated."
(人々はこの事件について何度も何度も討論を繰り返しているけれど、結局自分達が本当の被害者にならない限り、彼等の意見は何ら有効性を持たない。)
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