マレーシアといわれても、いまいちピンと来ない人も多いのではないだろうか。リゾート目的にパンフレットをめくったならば海と椰子の木とオラウータンの南国、というイメージを持つだろうし、出張を控えたビジネスマンならば海外企業の工場が立ち並ぶ生産基地をイメージするだろう。しかし、誰もが共通して「これぞマレーシア」というイメージはおそらくない。このことはマレーシア社会が多様であることのひとつの証明といえるが、そんなマレーシアを象徴できる言葉をあえて選ぶとすればこの3つだと思う。
「カンポン」はマレー語で「村、故郷」の意である。日本でいえば「兎追いしかの山」的な、伝統的マレー文化が息づくマレー人のふるさとであり、マレーシアのけだるくあたたかい雰囲気そのものである。椰子やバナナの木がつづく砂っぽい一本道の両脇に、高床式の木造の家がぽつりぽつりと立ち並ぶ。椰子と椰子の間に張られたロープには、女性が家の中で身につける色鮮やかなバティック(ろうけつ染)の腰巻き布がいくつも連なって風になびき、その下で鶏がエサをつつく。太陽が高くぎらぎらと照らしつける昼下がりには、たずねてきた近所のおばさんも子どももネコもいっしょに、軒先の日陰においた籐のソファに腰掛けてそよかぜにまどろむ。マレーシアは、マレー系60%、中華系30%、インド系10%とその他の先住民族などからなる多民族国家だが、中華系とインド系のおおくは19世紀以降イギリスの植民地になってから商人や労働者として移民してきた人たちの子孫である。そのため、マレーシアの土地とむすびついた伝統文化といえば「カンポン」に根づくマレー文化が中心、ということになる。もちろんここにはマレー系を優遇する政府の意図がみえかくれするのだけれども。
「油やし」は天然ゴムと並んで植民地時代に開拓された重要産物であり、そのプランテーションは現在でも飛行機から見ると深緑の迷路に見えるくらいどこまでも広く、規則正しくつづく。イギリスの植民地として発展して1957年に独立したマレーシアは、植民地時代の面影を景観だけでなく制度や文化に色濃く残している。
そして、「ツインタワー」は首都クアラルンプールの中心地に悠然と立ちそびえる近代的・先進的なマレーシアの象徴である。日本と韓国の建築業者が技術を競い合って建設した世界で最も高いビルのひとつで、外国からの活発な投資で急速な経済成長を遂げた独立後のマレーシアをあらわしている。
以上の3つはマレーシア社会を語るキーワードであるが、面白いことにマレーシアの個々人の中にもこの3つが見え隠れするように思える。「カンポン」で人の家に行けばまず「スダマカン?(もうご飯食べた?)」と聞かれ、食事を勧められる。堅苦しいおもてなしではなく、家族と同じような素朴で暖かい迎え入れ方である。初めて訪れた家で自己紹介も終らぬうちに「マンディー(水浴び・シャワー)したら?」「眠かったら寝ていいよ」といわれることもめずらしくない。このように他人を親しい人のように迎え入れるのは都会でも、大学の寮でもかわらない。民族やもちろん個人によって初対面の人との距離感は異なることを考慮してもなお、全体として人を受け容れる雰囲気があると言って良いだろう。
一方で、イギリスや日本という大国の影響のもとで成長、発展してきたという歴史からくる複雑なゆがみ、そうして発展したマレーシアへの自尊心も、様々な形で個人の中にみてとれる。マレーシアで「正しい」英語は日本で学ぶアメリカ英語とは若干異なる英国英語であり、それ以外は「間違った」「美しくない」英語である。独立前に教育を受けた世代ではイギリスへの憧れが強いが、若い世代では日本に対する憧れがものすごく強い。日本語のコースはいつも特に中華系の学生で定員オーバー、ショッピングセンターには「日本で話題の」という広告が溢れ、みなが日本のドラマに夢中になる。逆に、「ルックイースト」を掲げて経済成長を遂げたプライドは、フィリピンやインドネシアといった東南アジアの他国やアフリカ諸国への軽蔑となって現れることもある。アフリカから来た学生は、私が全く感じたことのない種類の不快感を常に訴えていた。
イメージの分裂した国、マレーシア。知るほどに多様な側面を見せてくれるそこを初めて訪れた3年前から、もっと知りたいという気持ちは尽きることがない。次回からは私の目でこれまでに見つけたいくつかの面を、詳しく紹介していきたい。
<つづく>
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