【Fami Mail】 特別寄稿連載  
 

第2回
中央大学 総合政策学部 国際政策文化学科 谷口 愛

 


バリ島での爆発テロ事件の第一報を聞いたのは、朝のラジオ放送でだった。とっさに様々なことが頭をよぎった。大学生活のうちの1年間を過ごしたインドネシア。けだるい空気がゆっくりと流れていく赤道直下の生活では、差し迫った危険を感じることは全くなかった。9・11以降、世界中で何かが変ってしまった。いや、そのずっと以前から少しずつ、歯車は狂いだしていたのだろう。かんかん照りの太陽の下、インド洋を望んで過ごしたあのときは、平和そのもののように思っていた。これから私が寄せるものはただの個人的な留学記に過ぎないが、バリ島の一件でインドネシアという国が少しだけスポットライトを浴びたことをきっかけに、一人の日本人大学生が見たインドネシアの別の側面を紹介できたらと思う。

(この留学記は、中央大学父母連絡会が発行している「草のみどり」151号〜154号に掲載されたものから抜粋したものです。)



 
1、インドネシア留学に至るまで
2、インドネシアでの大学生活 
3、ミナンカバウ族の人々
4、イスラームについて
5、インドネシアでの1年間


 

インドネシア共和国とは

私が留学先として選んだのは、首都のジャカルタでも日本人観光客で賑わうバリやジョグジャカルタでもなく、スマトラ島のパダンという外国人にとってあまり馴染みのない町だ。インドネシアは約1万4,000もの島から成る群島国家で、面積は日本の約5,1倍もある。領土は東西5,000キロ、南北1,800キロに及び、アメリカ合衆国の東海岸から西海岸までの距離と同じだと言われている。人口約2億人の多民族国家で、およそ200〜300の民族がいるといわれているが、広大な国家で一体どのくらいの民族が存在しているのかを示す正確なデータはない。公用語であるインドネシア語は比較的新しい言語で、公用語に決まってからまだ50年そこそこしか経っていない。各民族はそれぞれの全く違った言葉を話し、今でも同じ民族同士では現地の言葉を使ってコミュニケーションをとることが普通である。私が1年間暮らしたのは、「ミナンカバウ族」の故郷である西スマトラ州の州都、パダンであった。


<ミナンカバウ族の伝統家屋(ルマ・ガダン)の形をした宮殿(パガルユン)>
アンダラス大学
私は国立アンダラス大学の文学部に所属していた。パダンの町では外国人の存在が珍しく、日系企業がひしめき合うジャカルタなどとは大違いだ。外国から勉強しに来る学生があまりおらず、いたとしても本当に少数なので、大学に留学生を受け入れる体制が全く整っていない。登校初日から自分で学部長なり、学科長を探し、インドネシア語を特別に教えてくれる様頼んだ。何人かの先生を紹介され、これまた自力で先生を探す。先生の部屋がきちんと決められていないことが多く、カフェからなにからを探しまくる。なんとか全員の先生と交渉し、時間割と何を学びたいかを決め、「インドネシア語特別講座」がスタートした。スタートしたはいいが、教室も決められていたわけでなく、あるときは応接間のソファーで、またあるときはカフェで行った。そして、時間のたびに先生を探しに行かなくてはならず、また、先生が来ていないことも多々あり、はじめのうち、授業にこぎつけたころにはへとへとになっていた。中にはテキストを使う先生もいたが、基本的にはその日思いついたトピックについて話し合うなどの授業がほとんどだった。日本のきっちりマニュアルに沿った語学教育を受けてきた私は、こんな授業で本当にインドネシア語が上達するのか、心配だった。太陽が照りつける午後、先生「捕獲」までの長い道のりの後、ひんやりとしたコンクリートの部屋の中での授業は、時として、睡魔との戦いだった。先生と一対一の授業の他にも、インドネシア人学生に混じって講義を受けた。ガタガタの机や椅子。マイクなしの大講堂での授業。インクの出ないペンで書かれたホワイトボードの文字。中央大学の設備の素晴らしさを痛感した。
<西スマトラ州にある国立Andalas大学>
 先生予測
パダンでは道路のど真ん中で犬や山羊がだらしなく寝そべっている。ここでは動物に危機感というものがない。車が30センチのところまで来ても動じない。パダンの乾季は、肌が焦げて火が出るのではないかと思うほど暑い。動物が暑さのあまりうだうだするのなら、人間だってそうなる。インドネシアへ来て、ちょっとしたことでは動じなかった私だが、さすがに参ったことがあった。私の通っていた大学では、あまりに暑い日は、先生が大学へやってこない。パダンでは雨季になると、「ドラム缶をひっくり返したような…」という表現では言い表せないほどの豪雨が降る。そして、雨が降っても、先生は大学へやってこない。日本のように休講情報があるわけでない。私が必死の思いで教室へと辿りついても、先生が現れないことがしょっちゅうあった。授業の前は空を見上げて先生が来るかどうか、予測するのが日課になった。もちろん、すべての先生がいい加減(?)なわけではなく、指導熱心で素敵な先生も沢山いた。そのような先生とは個人的に付き合い、お家へ遊びに行ったり、いっしょに旅行したりもした。しかし、全体的に先生に責任感がないように見えるのは、彼らの待遇の悪さからだろうと思う。国立大学の一般的な先生の1ヶ月の給料は約一万円。いくら日本より物価が安いといっても、たった一万円で家族を何人も養わなくてはいけないのは相当厳しい。一生懸命やろうとやるまいと、もらえるのは一万円だけ。それならば、苦労して暑い日や雨の日にわざわざ大学へ行かなくてもいい。と考えてしまうという話しを聞いた。
<水牛>
 恐怖の通学
パダンはインド洋に面した町だ。上空から見るとよく分かるが、海があり、陸地があって、その先はすぐ山になっている。私の通った大学は、中心街から遠く、中央大学のように山の上に建っている。大学の門をくぐってからはじめに現れる建物まで行きつくには緩やかな傾斜をひたすら20〜30分は歩かなければいけない。町から大学への交通手段はバスのみ。しかし学生の数に対してバスの絶対数が足りない。朝と夕方のバスは日本の通勤ラッシュ顔負けだ。バスといっても日本のバスのような立派な代物ではなく、大きさは日本のバスより二周りくらい小さく、外側はそれぞれ思い思いのデザインが施されている。派手に塗りたくられた車体や、スパイダーマンが描かれたもの"KAMIKAZE"と書かれたものもある。中は天井が低く、163センチの私でも結構ぎりぎりだ。そして、隣の人と会話が出来ないくらいのボリュームで流行りの曲が流れる。学生の通学はというと、まずバスが来る。(インドネシアのバスは停留所があるわけではなく、好きなところで乗り降りできる)待っていた学生が一斉にバスに乗りこもうとする。(列を作って待つという習慣はない。我先に精神。)そしてバスの前方に女性が乗り、後方に男性が乗る。バスには扉がついていない。中がぎゅうぎゅうになると、あふれた男性群は、バスの外にしがみつく。どういうことかというと、中の棒なりなんなりにつかまり、開いた扉から外へぶらーんと外へ体を出す。腕一本と、かろうじて中に入っている足とで全体重を支える。しかもラッシュ時には何人もがぶら下がる。サーカスも真っ青だ。明らかに定員オーバーのバスは真っ黒の排気ガスを出しながら不安定そのものだ。それでいて、必要以上のスピードをだす。扉がついていないので、中に乗っていても外に振り落とされるのではないかとハラハラした。片側に男性陣がぶら下がっているので、バスはどうしても左に傾く。バスの事故の話しはよく耳にする。大学へ向かうバスが転倒し、学生が怪我をしたり、最悪死亡したりすることがたびたびあった。私はこのバスが最後まで好きになれなかった。とはいえ、幸運なことに私は、先生や友達の車に便乗させてもらうことがほどんどだったので、本当に助かった。インドネシアの学生は大学へ行くのも命がけだ。
 kos(コス)
地方から出てきた学生が下宿する場所をkos(コス)という。インドネシアでは大学生の一人暮しはありえない。みんなkosで集団生活をする。大体の場合、大家さん一家と同じ家の一角がkosになっている。お世辞でも広いとは言えないスペースに学生がごろごろいる。一人部屋で暮らす子もいれば、何人かで一室を使うこともある。一人部屋といっても本当に狭く、畳2〜3畳くらいが平均的だ。トイレやお風呂(インドネシアでは普通、シャワーはなく、桶の中に水をため、それをとっての付いた洗面器のようなものですくって水浴びをする)、台所(といっても、それぞれが料理用の灯油コンロを持参する)は共同で、トイレに行く為に人の部屋を通って行ったりする。よく言えば開放的、しかし、全くプライバシーのない空間だ。パダンでは結婚前の男女が一つ屋根の下にいることが許されておらず男女関係は非常に厳しい。Kosも当然、男女は別だ。私は女の子のkosへしか行ったことがないが狭いスペースに下手すると10人以上がいっしょに住んでいて、気が休まるときがない(と私は感じた)。私もそうだったが、インドネシアではまだ洗濯機が普及しておらず、手で洗濯する。当然、kosに住む学生も手で洗濯する。日本の大学生の一人暮しのように、一人のために洗濯機、冷蔵庫、掃除機、テレビ、ビデオ、パソコンがある世界とは違う。便利なものがなくても充分やっていける。インドネシアの学生は力強く見えたが、実は、日本の学生がものに頼り過ぎているだけなのかもしれない。
 素晴らしい日本の大学

他を知らなければ、自分が置かれている状況の有り難さを感じるのは難しいかもしれない。少なくとも私は、そうだった。教室は冷暖房完備で、パソコンも朝から晩まで好きなときに使える中央大学とは違い、学級文庫程度の図書館で、自由に使える自習室もない大学。大学の建物は、いわば、ただの空き箱で、中に何も入っていない。インドネシアの他の大学も、私の通ったアンダラス大学と似たようなものかどうかは知らない。しかし、私の知る限り、インドネシアの大学は、日本の大学と比べものにならない位、学習環境が悪い。それでも、学業に励む学生はたくさんいた。そんな彼らを、帰国した今でも、心の中で応援している。

私とアンダラス大学の出会いはインターネットだった。偶然見つけた大学で、苦労も色々とあったがどうにか留学にこぎつけた。決して一流の大学ではなかったが、外国人が少ないということで、個人授業をしてもらったり、インドネシア人学生と仲良くなれたりと、大都市の大学では味わえない地方の素朴さがあった。期待外れだったことや、満足いかないこともあったが、ここでしかない出会いや体験があった。私の大学選びは成功だったとしよう。

 つづく 

 

 

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