【Fami Mail】 特別寄稿連載  
 

中央大学 総合政策学部 国際政策文化学科 谷口 愛

 


バリ島での爆発テロ事件の第一報を聞いたのは、朝のラジオ放送でだった。とっさに様々なことが頭をよぎった。大学生活のうちの1年間を過ごしたインドネシア。けだるい空気がゆっくりと流れていく赤道直下の生活では、差し迫った危険を感じることは全くなかった。9・11以降、世界中で何かが変ってしまった。いや、そのずっと以前から少しずつ、歯車は狂いだしていたのだろう。かんかん照りの太陽の下、インド洋を望んで過ごしたあのときは、平和そのもののように思っていた。これから私が寄せるものはただの個人的な留学記に過ぎないが、バリ島の一件でインドネシアという国が少しだけスポットライトを浴びたことをきっかけに、一人の日本人大学生が見たインドネシアの別の側面を紹介できたらと思う。

(この留学記は、中央大学父母連絡会が発行している「草のみどり」151号〜154号に掲載されたものから抜粋したものです。)



 
1、インドネシア留学に至るまで
2、インドネシアでの大学生活 
3、ミナンカバウ族の人々
4、イスラームについて
5、インドネシアでの1年間


 

経験、しかも他の人がめったに体験しないようなこと。私が大切だと考え、また、生きがいに感じていることである。大学での生活だけでは飽き足らなくなり、大学3年の夏、日本を飛び出していった。目指した先はインドネシアのスマトラ島。多民族国家であるインドネシアの中で、私は「ミナンカバウ族」と呼ばれる人々の中で暮らした。2000年8月から翌年7月までの1年間、私が体当たりで経験したことを、紹介していきたいと思う。

 

いきさつ
この留学は偶然が重なって実現した。そもそものきっかけというのは、大学1年生の春休みの出来事であった。ブームともいえるのだろう。休みになると、大学生が競うように海外へ出る。目指すは東南アジア。背中にはバックパック、そして手には、沢木耕太郎の『深夜特急』をもって。ごたぶんにもれず、私もその「何も知らない旅行者」のひとりであった。そんな旅の行程で、マレーシアからタイへと北上するつもりが、一路南へ。予定にはなかったインドネシアはスマトラ島に辿りついてしまった。ドゥマイから深夜バスでブッキティンギへ。そして次の日、私はジャングルにいた。辿りついた先は、インド洋に浮かぶシベルート島。電気も水道もトイレもないジャングルの中で、メンタワイ族と呼ばれるいわゆる「原始生活」をする人々の家から家へとお邪魔していくツアーに参加した。お風呂は川で、トイレは茂みで、そして昼間はドロドロの道なき道を進む。そんな生活を10日間続けた。そして私はひどくその生活が気に入ってしまった。もともと文化人類学に興味があったので、彼らの生活をもっと知りたいという欲求にかられた。また、何故か、インドネシアに惹かれるようになった。「好き」とも違う気持ち。ただ、無性にこの地のことが知りたかった。マラッカ海峡を渡ったとき、私の運命は決まってしまったのかもしれない。
「留学しよう」と決めた。
日本に帰国後、私の留学先探しが始まった。
メンタワイ族のおじいさん
狩りのための毒を作っているところ

留学準備
英語圏に比べ、インドネシアへの留学は情報が非常に限られている。インドネシアの中でも、ジャカルタやジョグジャカルタなど、ジャワ島にある大学へ留学する人は多いが、スマトラ島となると、情報は皆無といってよかった。当時、私は、シベルート島の研究をしたいと考えていたので、最寄の都市、かつ、大学のあるところとして、西スマトラ州のパダンを選んだ。インターネットだけを頼りに、大学を検索したが、自分達でホームページを持っている大学は少なく、その数少ない大学のうちの幾つかへメールを出した。そして唯一、返事が返ってきたのが、私が在籍することになった「アンダラス大学」であった。1人の大学教授(のちにホストファミリーとしてお世話になる)とのメールのやりとりを1年ほど続けた。そして、シベルート島研究をしている教授ともコンタクトをとり、この大学へ留学することに決めた。

留学先が決まったはいいが、そこからが一苦労であった。他の国もそうかもしれないが、ビザを取るのが一筋縄ではいかない。これはインドネシアの公的機関(入国管理局、郵便局など)すべてに当てはまることだが、全然働いてくれないのだ。なにかしようとしても全然前に進めない。そしてその態度というのも、「・・・。」である。例えば、何かを頼んでおいたとする。数日後、もう出来ているかと思って訪ねてみれば、明日来いと言う。そして次の日またいくと、今度は1週間後に来いと言う。1年間の生活で、このようなことが何度となくあった。はじめの頃は、頭にきて、殴りかかろうかとも思ったが、そんなことをしたら、話が進まないばかりか、そこでの生活に支障をきたすことになるので、ぐっとこらえるだけだった。1年が終わる頃には、それにも慣れてしまったが。そのようなわけで、インドネシアの地を踏む前から、ビザの一件で、すでにインドネシア体質を経験。結局、ビザ取得までに半年と、袖の下を通すお金がいくらかかかった。

大学の手続きもまた一苦労。大学同士の提携があるわけではなく、私が勝手に「お邪魔する」だけなので、当然誰も手続きをしてくれない。この大学での手続きも奇跡的なほど「ゆっくり」しており、ごうを煮やした私は、ろくにインドネシア語も出来ないのに、自ら書類を揃え、直接大学に押しかけた。副学部長にお願いするものの、ビザを含め、その後の手続きに関しては「問題ない、問題ない」というかなり楽観的な返答があるのみ。この頃はもう、この「問題ない」ほど信用できないボキャブラリーはないことを悟りつつあった。
我慢、我慢、そして待つ。

知的準備も忘れられない。まずは、インドネシア語の勉強をした。事前勉強の中で、私が行く西スマトラ州に、世界最大規模の母系制社会に生きるミナンカバウ族がいることを知り、ミナンカバウ族についてもかなり興味を持った。

こうして全てがなんとか揃い、出発の日も決まった。留学する前から、かなりの達成感があった。ここまでこぎつける道のりが長かったからだろう。準備期間、しめて1年4ヶ月。それまで「留学する」という目標にとりつかれたかのごとく、突っ走ってきた。それが出発直前、ふっと立ち止まってしまった。そもそも何故自分は行くのか。また、むこうで勉強するだけの能力が自分にはあるのか。それまで振り向きもせずに走りつづけていたため、急に不安になった。しかし、周りには公言してしまった、手元にビザも航空券もある。もう後には引けない。

そして、2000年8月4日、出発の日。父に空港まで送ってもらう。自分の体重くらいあるのではないかという荷物の山も無事、チェックイン。高校生のときもAFS交換留学生として1年間オーストラリアで生活したことがある。いってみれば2回目の留学となるが、前回とはまた違った心境であった。たくさんの友達に見送られながら、出発ゲートをくぐる。友達、そして親の温かさ。後ろ髪引かれる思いも感じつつ、これからおきる出来事に胸膨らませ、日本を後にした。

とにもかくにも、私の1年間の始まりだった。
あのときはまだ、何も知らなかった。

 つづく 

 

 

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