『玉磨かざれば光らず』といわれるが、磨かれる苦痛は大きい。ともすれば、恵まれた環境で優しさとか自由放任に慣れた人が突然自由競争の世界で生きることを求められたときには、大きなストレスを感ずる。それが高じるとうつ病の原因となることもある。
子供の頃から優秀といわれ、日本の有名大学を優秀な成績で卒業して希望通りA社に就職したTさんは 順調を絵に描いたようなコースを歩んでいた。会社では成績優秀者上位3名が米国の大学への留学赴任を命じられた。
Tさんが同僚の羨望の眼差しの中を胸膨らませてM大学へ留学したのは9月であった。 留学してあっという間に2ヶ月が過ぎ、慣れと落ち着きが出て来たと思ったが、気持ちが沈みがちになり、眠れない日々が続くことに若干の違和感を覚えた。これまでの人生経験で自ら考え、主張をすることを求められ、これをしなければ事態が思わぬ方向へ行くことなどなかった。しかし、米国で一人暮らしを始めると何をするにも自ら何かを考え、決定し、動かなければどうにもならない。そのことが無意識なうちにストレスになっていたのであろう。Tさんは今までにこのような気分が続くことはなかったが、自身の今の状態を生活環境が変わったからであろうと気にも留めなかった。母親からはもうすぐクリスマスであり、授業が終わったらすぐに日本へ帰ってくるように言われ、Tさんもその通りに考えていた。
Tさんは休みに入った日に、帰国のため空港に向かったがオーバーブッキングが発生しており、安売航空券であったため搭乗できなかった。解りにくい強い言葉で翌日のフライトに振替えると言われ(と本人が理解していた。)止むを得ずホテルへ向かった。このときは特に異常はなかった。翌朝は、念のため早めに空港へ行った。それにも拘らず、再びオーバーブッキングのため搭乗できず、又次の日に来るようにといわれた。(後で調べた結果では、最初の日に搭乗できなかったため翌日に搭乗予約をするべきであった担当者がこれを忘れていただけであった。)航空会社の担当者は、当然のことながら手配ミスの責任を感じておらず、謝罪もしない。
Tさんはホテルの一室に篭って一人でいるうちに、『このまま一生日本に帰れないのではないか。』と思い始め、次第に深刻になり恐怖感に変わった。この結果、Tさんは発作的にホテルの4階から飛び降りてしまった。目撃者が呼んだ救急車で救命救急センターに運ばれたTさんは、診断の結果、右大腿骨骨折、両顎骨折、欝病であった。治療の内容は、整形外科医により大腿骨ネール・プレート固定術、口腔外科医と形成外科医により顎のワイヤー固定術、並びに精神科医によるカウンセリングであった。
このようなうつ病のケースは、早めに日本に運ぶことがよいと判断されるが、海外旅行保険約款上自殺未遂は免責である。うつ病に関する治療費は支払われるが、本件では入院7日間と3人の専門医の治療費が総額で約800万円にもなった。本件では、Tさんがケガをしていたため、日本への緊急搬送に際に精神科の治療よりも整形外科治療として術後の痛みをコントロールする鎮静剤を用いてTさんを睡眠状態に保つことで精神症状の現われるのを防いだ。また薬の効果が低下すると再度自殺思考や恐怖感などが出ることから、日本語の喋れるスタッフを同行させた。通常の搬送と異なり規模の大きい搬送チームでの対応を余儀なくされたため、救援者費用は約500万円に達した。しかしながら、最も困難であった点は、日本の精神科の病院でこのような重傷の患者を受け入れてくれるところを探すことであった。
Tさんはその後回復され元気に活躍され、この件もよい経験として受け入れておられる。玉が磨かれて一回り逞しくなられたといえるであろう。
うつ病は、日本でもようやく普通の病気と同じように誰にも発症するとの認識が高まりつつあるが、未だ閉鎖的で社会から隔離しておいてほしいとする風潮が一部に残っている。しかし、弊社の緊急搬送を担当する会社の代表者でありパラメディックのエミ・坂巻氏によると、米国では精神医療も他の病気と同じに扱われており、患者も、患者を受け入れる社会も病気として認識している。従って通院しながらの社会復帰も認められているし、学問の自由、職業選択の自由も確保されているという。また、アメリカでカウンセリングと医薬品による治療が大変うまく進んでいて、そのまま医薬品を減らしていくことを予定していた患者が帰国して日本で薬漬けに陥ってしまい、社会復帰が遅れたケースもある。米国のほうが精神疾患に対する偏見は少ないことは、これも医療文化の違いの一つであろう
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