医療は医学だけを背景になされるのではなく、政治・経済・宗教・歴史並びに生活文化等に影響されて成り立っている。資本主義国と共産圏との医療の違い、開発途上国の医療と先進国の医療の違い等々により、患者からから見た医療は影響され、違いが生じている。それでは最も先進的な医学的研究がなされ、先進国の代表ともいえる米国では、課題がないのであろうか。以下は、筆者が2006年の日本渡航医学会で発表した内容であるが、今も実態は変わっていない。オバマ大統領が、医療保険制度を改めようとしているものの反対も多くある。日本の健康保険制度の成功(国民皆保険)から見ると理解しにくい点である。

米国の医療は市場原理に基づいた営利事業であることはよく知られている。実際に現地で海外旅行保険のキャッシュレス提携契約交渉を数十件行った印象は、日本の医療関係者からは想定し得ない、「極めて貪欲なビジネス集団」である。カナダの医療関係者に聞いても「米国の医療機関はGreedy.」と口をそろえていう。米国では、治療費の回収ができないものがあると、大きな保険に入っている患者の請求額に上乗せして請求することも日常茶飯といわれている。治療費の請求書の下欄には、「30日以内に支払えば5%レス、90日を超えたら延滞利息14%、120日を超えたらコレクションカンパニーに移管し、あなたのクレジットに重大な影響が出る。」等と印刷されているものが多くある。カナダの医療機関はそれほど貪欲ではないが、医療機関における入院日数や脳死判定については米国の医療の影響を受けていると思われる。これらを示唆する具体的な事例が発生した。
2002年の出来事である。S氏(64歳)ご夫妻は定年退職後の楽しみに毎年海外旅行を楽しんでいた。この年は、『北米・カナダ14日間の周遊』の旅に出かけた。バンクーバーに到着した翌日は市内観光の予定であったが、S氏は気分がすぐれず、夫人に「私はホテルで休んでいるから一人で市内観光に行ってくるとよい。」と言ってベッドに横になっていた。このため、夫人は、S氏が疲れたのかも知れないと考えて、気軽にツアーに出かけた。バスで市内観光を行っている途中ランチタイムになったので、夫人は添乗員に、「主人の様子を聞いてもらえませんか。」と依頼した。添乗員の連絡を受けたホテルのフロントマンは、S氏が電話をしてもノックをしても反応がないので異変を感じ急遽客室の中に入ると、S氏は意識不明でベッドの上でうつ伏せに倒れ、尿失禁の状態であった。
フロントマンは救急車を手配して、状況を添乗員に知らせた。添乗員は夫人に状況を説明し、他のツアー客に悟られないようタクシーを手配して夫人だけを病院に送り、旅行会社の現地支店からガイド病院に派遣して夫人を出迎えた。病院のICUでは、S氏の治療が続いていたが、脳梗塞で意識はなく重篤であった。二日後、医師は夫人に「S氏は脳死と判断する。あとはソーシャルワーカーが説明します。」と言った。その際に渡された書類にサインすると脳死を配偶者として受け入れたことになり、全ての治療が停止されるという。驚いた夫人は保険会社の現地出先に電話をして「主人を助けて。心臓は動いているし、息をしているのに脳死なんて認められない。」といった。
保険会社では、緊急対応の専門医を通じて状況を確認したところ、「チェーンストークス状態ではあるが自発呼吸あり、従って心臓は動いている。」との報告で会った。チェーンストークス状態とは、本来リズミカルであるべき呼吸が乱れ、呼吸をしたり、途絶えたり、浅くなったりする不安定状態である。主治医の判断は、「現時点で脳幹死に至るのは時間の問題。すぐに呼吸も止まり、呼吸が止まれば筋肉運動の心臓は必然的に止まる。従って当病院の医師団としては脳死と判断した。」とのことである。


(写真上:ICUにて。写真は日本人パラメディック エミ・坂巻氏)

しかし、海外旅行保険約款に死の定義はない。「約款に定めのない事項については日本国の法律に従う。」との規定があるのみである。日本の法律では、特定の人以外の死は、心停止が前提であり、その段階で脳死を受け入れない夫人の主張は理解できるものであった。また、保険約款には、その地で必要な治療ができない場合、それができる地へ搬送する費用を支払う条項がある。S氏は、未だ生きているにもかかわらず脳死判定をされ、現地で治療を中止される状態である。保険約款上は治療の継続は必要と認められる。この段階で保険会社は、救助する方法は、心停止まで治療を続けてくれる所、すなわち日本までの緊急搬送しかないと判断して、病院側に、治療費を全額支払うので治療中止を伸ばすよう指示した。病院は、通常治療中止を喜ぶのは保険会社と思っていたため、日本の保険会社は何を考えているのか理解できない様子であった。夫人とS氏の親族に『日本まで緊急搬送して日本の病院で治療を続ける』ことを説明し了承を得た保険会社は、急遽チャーター機の手配を始めた。因みに定期航空便は、現地で脳死判定を受けた患者をキャビンには乗せない。理由は現地の法律上は死人であるからである。従って、運ぶ方法はチャーター機しかない。問題は保険金額がチャーター料を負担できるだけあるかどうかであったが、S氏の海外旅行保険は治療・救援者費用特約(S氏の契約は支払限度3000万円)付きであった。このため、日本までの緊急搬送が可能となった。小型機のため途中給油が必要でバンクーバーからアンカレッジ、ハバロフスク、札幌で給油して山口空港に着陸した。付き添いのパラメディックは3名であった。北米からの緊急搬送の際に医師はつかず、代わりにパラメディック(救急救命士のもっと専門的な人)が付き添う。なお、ヨーロッパやアジアからは医師が付く。


(写真上はチャーター機内。後ろ姿はパラメディックのグレン)

帰国後最寄りの市民病院に入院したS氏は、医療関係者と家族の懸命な治療と看護が功を奏して
後日意識を回復した。右半身にマヒは残ったものの車椅子の生活ができるほどになったのである。
原則的に脳死判定は、回復が望めないことが大前提であり、全脳死、全中枢神経死、脳幹死等様々な基準があるため、意識を回復することはあり得ない筈であった。しかし実際には回復している。疑問に思い、過去の事例を調べてみると、2002年から2005年まで米国・カナダでそれぞれ8件・1件と9件の脳死判定事案が発生している。そのうち3件の海外旅行保険が治療・救援者費用付きで無制限2件と3000万円が1件(S氏)であった。この3件については、チャーター機を使用して日本に搬送した。その結果、3名共意識を回復した。日本に運んだ人が100%助かっていたのである。残る6名の方は、日本に運んだからといっても必ず助かる保証はないこと、保険金額と日本へ運ぶ費用との差額が大きいこと、現地の医療を信頼したこと等で、検討の結果帰国搬送は希望されなかった。
なぜこのようなことが起こるかを調査してわかったことは、現地の医療が営利事業であること、健康保険は民営であること、健康保険に加入していない人が多いこと、等があった。
医療機関と健康保険との関係が互いに営利事業であり、日本のような信頼関係に基づいていないのである。医療機関は黒字倒産を防ぐため、取れるところからは最大限絞り取ろうとする。保険会社は医療機関の請求を初めから信用していないため、多額の治療費を要する終末期医療は「助からないものに多額に治療費をかけたのではないか」と疑い、長期間の調査と代理人を立てた減額交渉をする。医療機関は債権取り立て会社に債権を譲渡してしまう等、争いが多々発生している。また、健康保険に加入していない人の家族は、助かるか助からないかわからない患者に多額の治療費をかけて、死亡したら借金だけが残る。従って終末期医療にお金をかけたくない。
この3点に加えて、臓器移植が認められている国であることがある。これら4つの背景が合致して、脳死判定を早めにすることに全員のニーズとなっていると考えざるを得ない。
日本では通常、『医師を信頼し、診断から治療方法の選択までをお任せし、医師は期待にこたえ全力を挙げる』信頼関係が基本となっている。米国・カナダでは自主自立の国民性から医師は診断内容と治療方法の選択肢を示し、患者は自らどれにするかを選択・決断する関係である。日本では、米国人やカナダ人のように Living Will とかAdvance Directive 等、自分が意識不明になったときの治療方法まで予め決めて書面にしている人は極めて稀であろう。また、日本人の死は、多くの場合『心停止』であると考える。臓器移植等法制度が変わりつつあるが、脳死を人の死としている国の医療関係者は、自発呼吸には重きを置いても心臓が動いているかどうかについては、あまり重きを置いていない。
医学的な脳死の判断基準は同じでも、周囲の背景・環境から 医療の現場での脳死判定が早め早めとなっている米国・カナダで、いざというときに自らの命を守り、途中で治療を中止されないためには関係者の強い意志が必要である。具体的には脳死と診断されてもあきらめず、チャーター機で日本まで緊急搬送できる準備をすることである。預貯金であれ、保険であれ、費用負担ができれば日本の治療が受けられる。実際に世界から患者を帰国搬送させてきた経験から、日本の医療は最も患者にとって温かく、充実したものであることを確信している。いざという時に日本の医療を受けられる備えをして、出発して頂きたいものである。

長らくご愛読頂きました世界医療文化比較はここでしばらくお休みを頂きます。次号より、新シリーズでお届けします。乞う、ご期待!)

以上  

2009/9/25

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