海外に長く滞在すると、食事の違いから健康状態を損ねる人が多い。国によっては肉食が多い地域もあれば、ココナツミルク等を多用する地域もあるなど様々であるが、やはり日本の食習慣で摂取していた栄養素やカロリーとの比較は健康を守る上でも大切である。特に中年以降になるとその影響が出易い。日本にいても高血圧、動脈硬化や糖尿病などを発症し易い世代であり、このころに海外生活をする場合には一層注意が必要である。
N氏48歳は、仕事でパリに来て2年余りになるが、出発前の人間ドックではほぼ異常なしといわれたにも拘らず、この年の帰国時の検査では動脈硬化、高脂血症、高血圧、脂肪肝といわれてしまった。2年間でこれ程変化するのかと驚いたが、考えると仕事の中に日本から視察に来たお客様への接待がある。お客様は全員が有名レストランでのフランス料理を希望されるため、多い日は昼と夜、夕食だけでも年に200日はフランス料理のフルコースを摂ることになった。N氏にとっては接待が日常の仕事以上に大変な業務であった。止めることはできないし、続けると健康に支障がでるし、と悩むところである。
10月末のある日、いつものように接待が終わり、家に帰ったN氏は、夫人に言ってすぐに風呂に入ることにした。ディナーのあとカラオケまでお付き合いし、飲みすぎて多少ふらついてはいたもののバスタブで手足を伸ばすとこれが気持ちよく、そのまま暫く寝てしまった。夫人が「大丈夫?」と様子を見に来た声で気がつき、「大丈夫!」と答えて安心をさせた。その後、立ち上がろうとしたときにN氏は倒れてバスタブの縁に右後頭部を打ちつけ切創を負い、暫く気を失ったと思われる。
ガタンという音に心配になった夫人が再び声をかけると今度はうめき声が聞こえたため、ドアを開けるとN氏が倒れ血を流していた。すぐにSAMUと呼ばれる救急車をより、N氏は近くの病院に運ばれた。そこでは、看護師によるトリアージュ(症状判定)が行なわれ、倒れた時の状況から現在の症状まで詳しく聞かれた。このときN氏は、なぜ倒れたかも気絶したかどうかも記憶がなく、正確には答えられなかった。このため状態を実際より軽く判定されることになった。
後頭部切創の縫合処置を終え、医師から帰宅可といわれたN氏はタクシーで家に戻った。翌日朝は若干熱があったものの仕事の予程が詰まっているので休めない。 N氏は出社し、補佐役の社員に包帯が取れるまでの代理を務めてもらうよう指示して詳細の打ち合わせを行った。この途中で次第に気分が悪くなっていったN氏は、とうとう我慢が出来なくなり嘔吐して気を失ってしまった。
再び救急車で別の病院に運ばれたN氏は、救命救急センターで応急処置と検査を受けた結果、出血が凝固して脳を圧迫していることが判明した。このため緊急に血腫除去手術が行なわれた。診断名は脳出血であった。手術は成功したが発見が遅れたため、術後5日間昏睡状態が続いた。その後意識を回復したが、結果として麻痺の障害が残ることになった。
頭部打撲の場合、医師は意識障害の有無を重要な判断基準とする。N氏が気絶しないで切創を負ったと思った当初の医師は、瞳孔反応も正常であり創の処置をして帰宅させたのであった。
また、医師が原因をケガと判断するか病気と判断するかは、その後の保険請求で大きな意味をなすことになる。事故発生直後報告を受けた保険会社では、発生状況と事故に至るまでの身体的状態を調査した。ケガでも病気でも治療費用を支払うことに問題はないが、原因がケガであれば後遺傷害保険金が支払われることになり、他方病気であれば、麻痺の後遺障害に対する保障はなくなる。つまり、滑って倒れ頭をバスタブで打ち、切創と脳出血を負ったのであればケガとなり、脳出血が最初に発生して倒れ、その結果として頭を打って切創を負ったのであれば病気となる。
本件では、N氏の承諾をえて救命センターの主治医の先生に確認した結果、頭部打撲が先にあり、その後脳出血があったことが確認され、後遺傷害保険金も支払われることになった。
日常の健康状態に慢性疾患等があると、それにより発症する病気と似ている事故が発生すると、保険会社はケガか病気かを判断するための調査に苦労する。
外国に滞在する人々は、常にトラベル・メディスンを専門とする医師のアドバイスを受け、健康チェックと日常の健康増進を図っていただきたいものである。 |