■ゆっくりと流れる時間 上で述べたことは、「時間の流れ」にも関連します。昨日も、日本の企業と共同研究をしているイスラエル人から「日本はデッドラインが好きだよね?」「2日伸ばしたらよりよいものができるのに、なぜそれをアクセプトしてくれないんだ?」という質問を受けました。 日本では、あらゆることを予定通りに完璧な質を伴いながら進めていくことが要求されますし、それが美徳であるようにも思えます。しかし、こちらでは、たとえクライアントからの要求であろうと、「このデッドラインはクリティカルだ」とか「この要求はアージェントだ」という具合に強く主張しない限り、「質」を高める方を優先します。 悲しいことにイギリスでは「質」も悪いことも多いのですが、それは技術レベルの差としておくとして、とにかく、強い要求をしない限りは、彼らは自分のペースを守ります(最悪、対応しない場合だってあります)。そして、強い要求をしたところで、自分のペースは変えません。頼んだ仕事を優先してくれたり、他の人の協力を仰いだりして、間に合わせようとします。残業という選択肢にはなりません。 無論、例外もあります。ただ、バッサリ言ってしまうと、こういうスタイルなので、結果として、時間の流れはゆっくりです。先ほどの話でいえば、「そんなに急いでプリントアウトしなければいけないものがあるの?」ってな具合です。 このスタイルは研究室の中で確実に生活スタイルの差となって現れます。テクニシャン(イギリス人)は8時半ぐらいに来て、5時前に帰ります。イギリス人研究者は、同じく8時半頃に来て6時頃に帰ります(講師陣は別です)。彼らは必ず、午前と午後のティータイムを取り、ランチも1時間きっちり取ります。スペイン、ポルトガル、イタリア、などの学生は、遅めに来て、比較的夜遅くに帰ります。インドも含めたアジア系は、やはり一番ハードワーカーです。 おそらくイギリス人はそういった生活スタイルをクレージーだと思っているでしょう。確かに、イギリスはこれで国が機能しています(たぶん)。多くの日本人がいつも、「なんでこれで国がまわるんだ?」とつぶやいているのを耳にします。本当に私にも不思議ですが、それはやはり前回も書いた彼らのシステム作りのうまさゆえだと思っています。 ■「権利」責任の所在
さて、これまで述べてきた、手続すなわち一種の契約重視の傾向、役割分担の社会、これらは「責任の所在」を常に明確にしたいことの現れのようにも感じられます。その背景には、他民族との調和が必要である、ということも関連しているとは思いますが、とにかく、何かが起こったときの善後策という意味では本当に見習うべきところがあるのではないかと思います。 今、子供をNursery
Schoolいわゆる日本で言うところの保育園に通わせているのですが、初っ端から突きつけられたのは、一種の契約書です。その項目のうちのいくつかは、日本人にとっては少し奇異に感じられます。 たとえば、「子供の調子が悪い時は病院に連れて行っても構わないか?」なんてのもあります。「子供の写真をSchoolの宣伝などに使っても構わないか?」あるいは「子供を課外授業の時に、Schoolの外に連れ出しても構わないか?」なんてのもあります。その他、アレルギー食品について書かせる項目もあります(こちらではナッツアレルギーがメジャーです)。 すべて、一瞬、「え?」と思いますが、よくよく考えれば、その先には何らかのトラブルや事故を想定しているのがよくわかります。日本人の感覚からすると、「病院?何言ってんだ、連れて行けよ!」ってな具合ですが、なかなかどうして、よく考えられた項目ばかりです。 |