【Fami Mail】 特別寄稿連載  
 
ケンブリッジ大学留学記
英語嫌いのケンブリッジ留学
*目次* *写真集*
ケンブリッジ大学Engineering Department
Master of Scienceコース
嶽 浩一郎(だけ こういちろう)
著者HP>1,2,3でTOEFL脱出イギリス行
 第四回 カルチャーショック

 さて、これまでに、ケンブリッジ、イギリス英語、イギリスそのもの、について触れてきたので、なんとなく留学の雰囲気が伝わってきたかなと思います。

 そこで、今回以降は、これまでに経験した色々なエピソードを中心にお話しできたらと考えています。今回は、主にイギリスに関して感じたカルチャーショック(というほどのものではないですが)を紹介したいと思います。

■安全第一?  

 ケンブリッジ大学に入学して最初に受けたのは、実は授業ではなく、Safety Courseと呼ばれる安全に関する講習でした。

 その内容は多岐に渡り、刃物の正しい取り扱い方などといった非常に基本的な話から、電気、高圧、化学物質、超低温の危険性に至るまで、かなり広範囲なテーマについて安全の講習が行われます。この講習を受けるのは学生(新入生)の義務となっていて、これを受けずして実験などをすることは不可能です。

 さらにその数日後、リスクアセスメントの講習が続き、さらに数日後、実験をする前に提出すべき書類に関する説明があり、ようやく安全関連のイベントは終了します。日本の大学の工学部で、このようなイベントがあるかというと、おそらくそうありふれたことではないと思うのですが、どうでしょうか?

 さて、しかし、これらの講習が全て有益であったかと問われると、必ずしもそうではありません。知ったことの方が多いうえに、内容そのものも危険性についてあまり真剣に伝えようとはしていないように思えました。

 ただ、その手続としての徹底ぶりには感心?させられるものがあります。まずは、このようなイベントがあったこと、そして、何をするにもセキュリティの書類を提出しないといけないこと、などがそう思わせます。もちろん日本でも企業に入れば、安全の講習があり、手続や書類ももちろん必要ですし、至極当たり前のことといえば、当たり前のことなのかもしれません。

 しかし、やはり両者には違いがあり、イギリスは手続優先で、日本は実質優先の感が否めません。その証拠にイギリスでは大学から既にこのようなイベントが行われています。

 そして、イギリスは重大な事故以外は起き得るものとして考え、日本は全てを防ごうとする完璧主義のように感じます。たとえば、切り傷などの応急処置のため、イギリスではFirst Aidと呼ばれる簡易救急箱みたいなものが至る所に置かれていますが、日本だと長袖着用必須といったように「ケガが起きないような形で」安全が考慮されています。日本では夏でも長袖の作業着を着なければならなかった、とボヤいている人をちょくちょく見かけます。

 起き得がちなものを、そう認めるやり方というのは、まさにリスクアセスメントですが、前回も書いたように、全体システムを構築していく西欧的な思想に相通じるものがあるといえるのではないでしょうか?

■「役割」が明確な社会

 さて、上で救急箱について触れましたが、薬関連で、興味深い出来事が先月ありました。

 ある日本人の企業の方が、ケンブリッジにいらっしゃったのですが、運悪く体調を壊されてしまいました。とにかくお腹をこわしたのを止めないと、ということで、まずは宿泊したホテルに頼んだらしいのですが、「ホテルでは薬を渡す資格がないので無理だから薬局まで行ってくれ」と言われたそうです。

 しかし、薬局まで行く元気もなければ、慣れない英語で止瀉薬を探すのも難しそうだったので、それはあきらめたそうです。それよりも研究室の秘書に個人的に頼んだ方がいいと考え、タクシーで研究室まで来たのですが、あろうことか、秘書から返ってきたのはまったく同じ答えだったのです。とにかく、その資格がないので、無理だとの話です。

 これがもし、応急に処置をしなければ致命的なことになる場合なら、話は別なのかもしれないですが、とにかく日本人にはピンと来ない話です。ちなみに、その応急処置箱には、もちろん、その手の薬は入っていません。

 しかし、こういったことは、こちらでよく経験する話です。先日も、あるプリンタのカートリッジが取り替え時期になったため、きれいに印刷できなくなりました。そこで、隣のポルトガル人に新しいカートリッジはどこかと聞いたら、「知らないなぁ」とのこと。長くいる学生なので、知っているはずだと思ったのですが、誰に聞いても返ってくるのは、「知らないなぁ。これは秘書の仕事だからねぇ。」とのことです。

 日本なら、誰の担当であろうと、場所ぐらい誰かが知っているし、知らなければ探したり、あるいは、すぐに使うべく他の研究室に余りがないか聞いたり、究極、近くの店に買いに行ったりするはずですが、そういうことは一切行われません。結局、秘書が現れて新しいのを調達するまで、丸3日ぐらいプリンターは使えませんでした。

 それぐらい使えなくても、「致命的」じゃないでしょ?という論理なのです。「致命的」であれば、他のやり方を自分で考えなさい、ってなカンジでしょう。

 もちろん、既出の日本の方が、ちょっとした紙詰まりを直そうとした時も、それを見ていた秘書に、Don’t touch it!と言われてしまいました。素人が数分で直せるほんの些細なトラブルだったと思うのですが、秘書が業者を呼び、業者がほんの数分で誰もができるような修理をするまで、誰もそのプリンターを使えなかったことは言うまでもありません。

 こちらでは、誰かの役割と決められていることに手を出すのは、たとえ親切心であろうと、たとえ全体の効率化に寄与しようと、それはタブーなのです。

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■ゆっくりと流れる時間

 上で述べたことは、「時間の流れ」にも関連します。昨日も、日本の企業と共同研究をしているイスラエル人から「日本はデッドラインが好きだよね?」「2日伸ばしたらよりよいものができるのに、なぜそれをアクセプトしてくれないんだ?」という質問を受けました。

 日本では、あらゆることを予定通りに完璧な質を伴いながら進めていくことが要求されますし、それが美徳であるようにも思えます。しかし、こちらでは、たとえクライアントからの要求であろうと、「このデッドラインはクリティカルだ」とか「この要求はアージェントだ」という具合に強く主張しない限り、「質」を高める方を優先します。

 悲しいことにイギリスでは「質」も悪いことも多いのですが、それは技術レベルの差としておくとして、とにかく、強い要求をしない限りは、彼らは自分のペースを守ります(最悪、対応しない場合だってあります)。そして、強い要求をしたところで、自分のペースは変えません。頼んだ仕事を優先してくれたり、他の人の協力を仰いだりして、間に合わせようとします。残業という選択肢にはなりません。

 無論、例外もあります。ただ、バッサリ言ってしまうと、こういうスタイルなので、結果として、時間の流れはゆっくりです。先ほどの話でいえば、「そんなに急いでプリントアウトしなければいけないものがあるの?」ってな具合です。

 このスタイルは研究室の中で確実に生活スタイルの差となって現れます。テクニシャン(イギリス人)は8時半ぐらいに来て、5時前に帰ります。イギリス人研究者は、同じく8時半頃に来て6時頃に帰ります(講師陣は別です)。彼らは必ず、午前と午後のティータイムを取り、ランチも1時間きっちり取ります。スペイン、ポルトガル、イタリア、などの学生は、遅めに来て、比較的夜遅くに帰ります。インドも含めたアジア系は、やはり一番ハードワーカーです。

 おそらくイギリス人はそういった生活スタイルをクレージーだと思っているでしょう。確かに、イギリスはこれで国が機能しています(たぶん)。多くの日本人がいつも、「なんでこれで国がまわるんだ?」とつぶやいているのを耳にします。本当に私にも不思議ですが、それはやはり前回も書いた彼らのシステム作りのうまさゆえだと思っています。

■「権利」責任の所在

 さて、これまで述べてきた、手続すなわち一種の契約重視の傾向、役割分担の社会、これらは「責任の所在」を常に明確にしたいことの現れのようにも感じられます。その背景には、他民族との調和が必要である、ということも関連しているとは思いますが、とにかく、何かが起こったときの善後策という意味では本当に見習うべきところがあるのではないかと思います。

 今、子供をNursery Schoolいわゆる日本で言うところの保育園に通わせているのですが、初っ端から突きつけられたのは、一種の契約書です。その項目のうちのいくつかは、日本人にとっては少し奇異に感じられます。

 たとえば、「子供の調子が悪い時は病院に連れて行っても構わないか?」なんてのもあります。「子供の写真をSchoolの宣伝などに使っても構わないか?」あるいは「子供を課外授業の時に、Schoolの外に連れ出しても構わないか?」なんてのもあります。その他、アレルギー食品について書かせる項目もあります(こちらではナッツアレルギーがメジャーです)。

 すべて、一瞬、「え?」と思いますが、よくよく考えれば、その先には何らかのトラブルや事故を想定しているのがよくわかります。日本人の感覚からすると、「病院?何言ってんだ、連れて行けよ!」ってな具合ですが、なかなかどうして、よく考えられた項目ばかりです。

■女の子の顔に傷をつけたら...

 先日、これまた興味深い出来事がありました。しかし、この場合は、他人事だからそう言っていられるのであって、自分のことであれば怒り心頭、でも怒りをぶつけられない、ってな出来事でした。

 ケンブリッジのいいところは、少し探すと、ちょっとした集会や教室が無料で楽しめるということです。また、子供には優しい国なので、そういった教室にcrecheと呼ばれる託児所がついていたりして、これはなかなかいいものだなぁと感心しています。さて、我が家においても色々と探した結果、妻は週に一度無料のcreche付きの英語教室に通うことができています。

 そこで、先日、韓国人ママの2歳の女の子が、イギリスの同い年の子供に、頬を思い切り引っかかれる、という小事件が起こりました。たかが引っかき傷とはいえ、1ヶ月以上経った今も、まだ傷が残ることからもわかるように、かなり深い傷であったようです。

 女の子はその瞬間は泣いたようですが、その後は、楽しく遊んでいたらしく、預かっていた先生はそのママに、「あの子が引っかいたんだけど、その後も一緒に楽しく遊んでいたようだから、大丈夫よ」と伝えたようです。

 私も知らなかったのですが、韓国は日本以上に、こういった場合に深謝しなければならないようで、憤慨したママは、何の謝意も示さないイギリス人ママに、謝るよう強く迫りました。しかし、イギリス人ママは、えっ何言っているの?という表情を見せた後、気の抜けた顔のまま、一応So sorryと言っただけでした。

 怒りの収まらない韓国人ママでしたが、ここはイギリスであるということ、怒ったところでどうしようもないことから、引き下がらざるを得なかったようです。その後も、夫や母にも自分が怒られるし何より子供が可哀相、とつぶやいていたようです。日本人としては、この韓国人のママの感覚に近いので、非常に同情してしまった次第です。

 この話を、イギリス人のテクニシャンに聞いたところ、個人差もあるし、程度にもよるけど、イギリスでは2,3歳以下の子供のすることは、誰のfaultでもないものとして扱いがちだ、ということでした。つまり、その事件は誰が悪いわけでもないんだ、と。話としては、わかるのですが、でも子供の爪を切っておくのは親のfaultじゃないの?と言いたくなりますが、しょうがないんでしょうね。確かに、イギリスでは子供のすることに対して、寛容すぎるキライがあります(もちろん日本人から見て、の話ですが)。

 スーパーでも、博物館でも、子供はいつも走り回っているし、まだ買ってもいない食べ物を食べ始めるし、そこらじゅうを転がっているし、陳列している商品は落としまくるし、それはそれは、日本では考えられない光景ばかり目にする毎日です。


 手続すなわち契約社会、役割分担社会、責任の明確化、ゆっくりな時間、子供の行動に関する違い、これらはすべて独立している話ではないと思います。このような英国社会(あるいは欧州社会)の特徴は、やはり外様だからこそ感じられる話なのではないかなぁと思っています。ケンブリッジは運良く、かなり国際色豊かです。こんな話をできる機会も多いのが、自分にとって楽しい時間に今なってきている毎日です。

2004年10月15日

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つづく

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