9月13日は、中秋月のお祭りの日であった。東アジア圏で広く祝われている、お月見兼お盆のお祭りである。
中村屋やヤマザキで売っている「月餅(げっぺい)」というお菓子をご存知だと思うが、そもそもは中秋月に友達やお世話になった人々に贈り合うお菓子である。ちょうど一年前の帰国直前の日々、大学の前に夕方から出るパン屋屋台の中華系のおばちゃんが毎日持ってくる月餅に、はまって来る日も来る日も食べ続けたのを思い出す。
その横の中華系の集住地区では、町内会によってご先祖様を迎える大きな祭壇が作られ、週末の夜には中華系の伝統人形劇が派手な音楽と共に演じられ、多くの人が群がっていた。
マレーシアのスーパーマーケットやショッピングセンターはほとんど中華系によって経営されている。断食シーズンにはもちろんそれにともなった商品展開が繰り広げられるのだが、中華系の祭りとなるとそれに輪をかけてお祭りムード一色となる。したがって、断食明けのお祭りのときでも買い物には特に不便しないのに対して、中国正月にはいっせいに商店が閉まって何も手に入らなくなってしまう。「経済を握っている」といわれている中華系のパワーを一番実感するのはこのときである。中秋月はそこまで大きなお祭りではないものの、一ヶ月前からショッピングセンターの催事場は「ブランド月餅」売り場で埋め尽くされる。一言に月餅といってもその内容はさまざま。小豆、蓮の白あん、それぞれに卵黄の塩漬けの入ったもの、そしてマレーシア特有の「パンダン」味。パンダンとは、マレーシア料理には欠かせない香り付けの草である。マレーシア周辺で緑色に着色されたお菓子、ジャムやパン、あんこなどを見つけたらそれは「パンダン」フレーバーである。マレーシアのご飯が独特のにおいがするのは、多くの場合この「パンダン」の葉を入れてご飯を炊いているからだ。
月餅は日本では植物油を使って作るが、本場では豚の油をあんこや皮に混ぜ込んで作る。したがって、イスラム教徒の食べられない「ハラーム」の食べ物になる。植物油を使ったものも多く存在するが、見ただけではどうだかわからないせいか、味覚があわないせいか、マレー系の子が食べているのはみたことがない。この意味では中華系とマレー系で分離している食べ物のひとつである。けれども一方で、パンダン味はマレーシアで共有された文化である。つまり、「月餅パンダン味」の中にも文化の境界線が混在している。さらに、形は違えどヤマザキの月餅はampmでだって買うことができる。グローバル化とか、文化の交流や混成など難しそうな言葉で語られている現象は、日本人の私がマレーシアでも日本でも月餅の甘さに幸せを感じるのと同じくらいあまりにも日常的な、「普通」なことなのだと思う。
5回にわたってマレーシアのまちゃむまちゃむな側面についてレポートしてきたが、どうしても伝えたかったことは、「まちゃむまちゃむはすてきだ」ということである。マレーシアは多民族であるだけではなく、ひとつの民族の中でも出身地や所得差、学歴差などによってその言語や生活スタイル、考え方が大きく異なっている。民族的多様性を強調することはむしろ、それ以外の多様さを隠すことになってしまう危険性すら持っている。マレーシアに留学したい、と思い立った一番の動機は「そんなに多様でどうやって社会が成り立つの?」という疑問だった。けれどもマレーシアで一年間暮らして身についたのは、「まちゃむまちゃむであたりまえ」という感覚だった。「単一民族国家」であると言い張る人がまだまだたくさんいる日本だって、個人の性格や生き方はそれぞれである。ましてや世界全体は多様性のかたまりだ。みんな違って当たり前であるということは、誰もが知っているけれども、それを認められないことが多々あるから世の中難しい。
外国で働いたり生活している方々がストレスを感じたり、不適応になったり、逆に外国で適応した子どもたちが日本の学校に適応できなかったり、と異文化間を行き来することによって個人が経験する難しさもある。さらには、9・11やイラク戦争、相次ぐテロリズムに象徴的なように、本来多様な世界が「グローバル化」することでひとつの価値観が推し進められることで勝者と敗者がはっきり別れてしまうといった、社会全体の問題も生じる。もっともっと単純に、夫婦の間で昼ごはんをざるそばとかけそばのどっちにするかで意見が合わずにけんかになることだってある。多様であるよりも、同じである方が楽なことはいくらでもある。
それでも、やはりいいことも悪いことも全部あわせて、「まちゃむまちゃむであたりまえ」ということを意識し、受け容れるところからすべてが始まるのではないだろうか。はじめにも述べたように、マレーシアに留学して得たものは?という質問をいろいろな人にされた。今答えられることは、マレーシアで得た宝物とは「まちゃむまちゃむであることを当たり前として世の中を見る視点」に他ならない。マレーシアでそう感じることができたのは、マレーシア人がすべて違いに対して寛容な、聖人であったからでは決してない。それよりもむしろ、好むと好まざるとかかわらず、ごく日常として多様性を前提として生きるしかない、という現実的な要請があるというほうが実情に近いと思う。そう考えると、しばしば崇高なことのように語られる「多様性を前提として世の中を見ようとすること」は、とても身近な、しかし必要不可欠なことだと感じられる。これが私がマレーシアで得たもので、6回のささやかな連載を通じて伝えたかったことだ。
「まちゃむまちゃむであたりまえ。そしてそれは、とてもすてきなことである。」
この連載を読まれた方がそんな感覚を、どこかで少しでも感じていただけたならとてもうれしく思うし、私自身これからも無限に発見していきたいと思っている。
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