【Fami Mail】 特別寄稿連載  
 

特別寄稿
「まちゃむまちゃむmacam macam・マレーシア」
〜マレーシア留学記〜
東京学芸大学大学院教育学研究科 久志本 裕子

目  次
<はじめに>
まちゃむまちゃむ(1)  カンポンと油やしとツインタワー
まちゃむまちゃむ(2)  ハッピー・ラマダーン(断食月)の憂鬱
まちゃむまちゃむ(3) ことば、ことば、ことば ―英語コンプレックス克服法?―
まちゃむまちゃむ(4) ロティ・チャナイの含む絶妙な「空気」
まちゃむまちゃむ(5) 「上を向いて歩こう」の威力
まちゃむまちゃむマレーシア 最終回
「まちゃむまちゃむのくれたもの−グローバリゼーションは月餅の中に−」

<まちゃむまちゃむ(2) <ハッピー・ラマダーン(断食月)の憂鬱>

 断食をした。
 というと、民族問わず大変驚かれるが、留学中の2001年11月から12月にかけての断食月(ラマダーン)に、イスラム教徒であるマレー人のルームメイトと一緒に2週間断食をやってみた。断食、という言葉からは、「強い宗教心を持って初めて可能になる、異教徒には理解しがたい苦行」という印象を受けるのではないだろうか。かくいう私も何か厳かなものを想像していたのであるが、マレーシアのラマダーンの印象は、一言で言うと「お祭り」であった。結構楽しいのである。
 
 
 断食といっても、もちろん1ヶ月飲まず食わずなわけではない。日の出から日の入りまで何も体内に入れないということである。赤道近くのマレーシアでは、だいたい朝の6時ごろ、夜明けのお祈りの時間の前までに「サフール」(朝食)を済ませる。その後、夕方7時すぎの日の入りのお祈りまでの約13時間、食べ物、飲み物はもちろん、つばを飲んだり、プールで耳から水が入るのも原則ダメである。たしかにあれだけの暑さの中、水も飲まないのは辛い。けれども、授業や宿題などで忙しくしていればそれなりに忘れてしまうし、一番暑さの厳しい午後5時前後には昼寝をしていることがほとんどであったりもする。何より、その後の楽しみを考えると結構我慢できてしまうのである。
 

 午後6時近くなると、どこからともなく道端に屋台が並び、街が一気に活気づいてくる。人の集まるモスクの近くなどには、いくつもの「ラマダン市場(パサールラマダン)」が出て、ありとあらゆるご馳走の屋台が所狭しと建ち並ぶ。この時期にしか食べられない色とりどりのお菓子、各地の名物料理…それはもう、みているだけで幸せになってしまうような鮮やかさ。ここで小1時間ほど食べ物を選んで部屋に帰れば、まもなく「ブカ・プアサ(断食明け)」、英語で言うと「ブレック(破る)ファースト(断食)」である。

写真:色とりどりのマレー菓子

 友達5、6人と部屋に集まり買ってきた大好物を並べたら、あとはモスクから流れる「アザーン(お祈りを知らせる歌)」を待つだけ。ぽつりぽつりとおしゃべりをしながら耳を済ませてじっと待つ。夕焼けの空に、「アッラーフアクバル…(アッラーは偉大なり・・・)」という調べが高く、のびやかに響く。ムスリムでなくとも、何となく神聖な気持ちになる一瞬である。ムスリムの友達は、その声に水をすくうように手を合わせ、目を瞑って感謝の気持ちを小さくつぶやく。そのあとはもう、大宴会である。まず、「クルマ」と呼ばれる干ナツメヤシを1、2粒食べ、甘いジュースを飲み、食事を始める。「コーラン(聖典)」にも書かれている、胃がビックリしないようにするための智恵だ。あとはとにかく好きなだけ食べる、食べる。みんなで同じようにお腹を空かせて、食べるご飯のおいしいこと!!こうした食事こそが飽食の時代に生まれ、核家族に育った私にとって、とっておきの「贅沢」なのだと思う。
 

 ラマダーンは、断食をするだけの月ではない。全ての欲望をおさえ、イスラームについて考えなおすイスラーム歴の1年の終りの月である。モスクでは毎晩、イスラームの教えについての勉強会のようなものが開かれ、ふだんは部屋でお祈りをする女子も全身白のお祈り用の服(給食当番のように服の上から着る)を身につけてウキウキとモスクへ集う。気になる彼が男子のお祈り用のチェックのサロンと黒い帽子を身につけ、身だしなみを整えてモスクに来るのに会えるかも、などと期待しながら。
 

 個人的に「コーランを毎日○章読みなおそう」と心に誓ったり、子どもだったら両親とともにはじめてのコーラン通読に挑んだりすることもある。たどたどしくもいっちょまえにアラビア語の「お経」を唱える小さな子の姿は、自分の子でなくともたまらなく愛くるしい。あまり「宗教」を意識しない日常をおくっていると、「断食はムスリムの絆を深める」などと聞くとなんとなくあやしい新興宗教団体の没個性化集団を想像して拒絶してしまいがちである。けれども実はそんな難しいことではなくて、高校の文化祭でクラスが団結するように、「共有する楽しみが増える期間だから一緒にいるのが楽しくなる」といったごくごく自然の現象が「宗教」という名のもとに起こっているだけではないだろうか。

    

写真:夕食後、家族でコーランを読む

 

 ということで、断食月はお祭りムード漂う楽しい期間なのであるが、「楽しい」だけではすまないのがマレーシアである。ワールドカップがいくら盛り上がったイベントだといっても、スタジアム近隣のサッカーのサの字も知らないお年寄りにとってはうるさいわ交通は麻痺するわの災害としか思えないかもしれない。マレーシアには断食なんてこれっぽっちも関係ない人たちが半分くらい住んでいるのである。私のいた学生寮は3人ひと部屋で、しかも民族混合が原則である。昼食べない上に昼寝をするぶん、よなよな12時1時に食べ物を持ち寄って5人10人集まりきゃいきゃいやられた日には、普段の生活リズムをまもって生活しているほかの民族はキレて当然である。だがそれで喧嘩になったという話も特に聞かない。ただ、寮生活が義務付けられている一年生を終えると真っ先に出て行くのは非マレー系、特に中華系の学生たちである。「異なる」人たちに直接不満をぶつけず、黙って避ける智恵は良くも悪くも多民族社会マレーシアの「均衡」を支えているように思えてならない。
 

 もちろん、全てのマレー人が迷惑をかけるわけではないし、全ての中華系がいやがるわけでは決してない。特別なことをしているからといって非ムスリムよりも自分の方が偉いと思ったり、関係ない人々に迷惑をかけることを「宗教」の名のもとに正当化するかどうかは、個人の資質の問題であって宗教そのものの問題ではない。「いやなムスリム」はムスリムである以前にいやな奴である可能性が高いはずだ。宗教の思想と、それを個人がどう解釈して実践するかをいっしょくたに考えてしまうことは、政治とか文化とか、さらには個人の性格とかいったものを全部ないものとして考えてしまうということではないか。不穏なニュースが続く最近特に、こんなことを考えずにはいられない。
 

 さておき、ラマダーンは太陰暦のイスラーム暦で新月から次の新月までの1ヶ月、約4週間である。ところが冒頭で述べたように私がしたのは2週間。断食の楽しさや意義をとくとくと述べた私であるが、所詮空腹は空腹だったのだ。まさに思想と実践は一致せず、忍耐という言葉を知らない現代っ子の私はその後、断食もせずにお祭り気分だけを満喫した結果、資質ではなくて脂質を増やしてしまう憂き目にあったのである。

 


<つづく>



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