日本語サークルの学生たち
(特に中華系の学生に日本語は大人気である)
海外に滞在する日本人が間違いなくぶつかる壁、ことば。多くの場合それは「国際語」であるところの英語である。「日本人は英語ができない」という言説は、自他共に認める世界の常識になってしまったかのようである。けれども、と私は思う。それは思い込みとなって多くの人の心を支配してしまっていないだろうか。できないといわれればそれをただ認め、コンプレックスを克服できずに悶々としていないだろうか。
マレーシア留学で私がまず直面したのも英語の壁であった。旧イギリス領であるマレーシア、特に大学のような場では英語がかなり普及している。留学生用のプログラムは全て英語で行われ、マレー語は使う機会を進んでつくらなければ必要ないくらいだ。自分の英語力不足に焦った私は、現地学生むけの英語の授業を履修した。イギリスに留学したことのある女性教師は私の「日本人英語」をとりあげてクラスの笑いものにした。わざとRとLのたくさん入った単語を何個も並べてみんなの前で発音させ、「次回までに誰か教えてあげなさい、それでもこのジャパニーズができなければ、教えた人もできないってことよ。」といい、名乗りをあげた親切な友人は当然次週駄目だしをされることになった。このときばかりはくやしくてくやしくて、小学生のように校舎の裏で泣いたものだ。日本人に生まれた自分を恨んだ。しかしそんな日本人にも負けない、マレーシア人の英語をめぐる「コンプレックス」があることがぼんやりと見えてきたのは留学が終わりかけるころであった。
マレーシアはご存知のとおり多言語国家である。国語とされている「マレーシア語」は、マジョリティであるマレー系のことばマレー語であり、公式な文書などは基本的に全てこれで書かれる。次に多い中華系、インド系のことばである北京語、タミル語、東マレーシアのいくつかの言語も公式には学校で使えることになっている。しかし私的なコミュニケーションの場面で使われることばはそれにはとどまらず、同じ中華系でもペナンでは福建語、クアラルンプールでは広東語、ジョホールでは北京語が優勢であるなど数え上げたらきりがなく、マレーシア全体で80以上もの言語が使われているともいわれる。
たとえば、ペナン生まれの中華系で家では福建語を話し、小学校では北京語で勉強しつつマレー語と英語を学び、中高ではマレー語で教育を受け大学で日本語を専攻して日本企業に就職し英語で業務を行っているので少なくとも五言語は話せる、などというケースはざらである。これが一日の中でも起こる。朝起きてルームメイトと北京語で会話し食堂で福建語で朝食を注文しマレー語で授業を受け、昼にはインド系の学生と英語でディスカッションをしていたら親から電話がかかってきたので広東語で話し・・・といった具合である。さらにこんなことが一時の会話の中でも起こる。グループで英語で話しているのに参加したらまったくついていけなくなり、自分の英語力のなさに愕然としつつもよく聞いてみたらいつのまにか北京語になっていたのでわからなくて当然だった、などなど。
まったく秩序がないように見えながら、その場に参加している人間がその話題について一番理解しあえる、あるいは心地よいと感じる言語を選んで瞬時に使い分けているのである。逆に彼らにとっては全てが、英語の授業さえも日本語ですんでしまう日本という環境は驚異的である。そんな彼らに外国語を使うことの困難や抵抗は理解できないだろう、と思えそうだが、こと英語に関してはそうもいえないのである。全てをマレー語で済ませることも可能なマレー系はもちろん、多言語を使用しなくては生活できない人々にしても、日常生活で難なく英語を使っているように見せて実は「英語ができない」と恥じているケースが多い。
まず、みんながそれなりにしゃべれるから少々できても何の得にもならないという辛さがある。マレーシアでも不景気の続く近年は大学を出ても就職できないことが問題となっており、その大きな原因の一つとして大卒の英語力不足が挙げられている。マレーシア人の「英語力低下」は常に新聞をにぎわす大問題であり、2002年末には小学校から理数系の授業を英語で行うことにするか否かで暴動の再発まで懸念される大論争になった。結局政府の「国際競争力向上に英語は不可欠」との見解が反対派を押しきって2003年1月から理数系教育の英語化が始まっている。農村の小さな小学校の教師でも、バイリンガルでなくてはならないから大変である。さらに、たくさんの言語を学ばなくてはならない分文法に弱く、読み書きがきちんとできないことがある。普段英語の新聞を読んでいても、動詞のない文章を作ったりしてしまうのだ。ある英語の授業で中学生程度の文法の小テストをしたら、段突でおちこぼれていた私がなんと一位になって自分が一番驚いた。マレーシア人が英語力を気にする理由がやっとわかった瞬間であった。
こう考えると、日本人の英語をめぐる環境はかなり恵まれているように思えてくる。変化しているとはいえ基本的に英語ができなくとも仕事は見つかるし、いざ必要となってもたいていの場合、学校教育で培った文法力がある。英文法ばかり教えられるからだけでなく、日本語という一言語を集中して学ぶことで培われる抽象的思考能力や読解力といった一般的な言語能力が、新しく英語を学んだときにも応用できるためと考えられる。口から出てくる英語量で比べると「日本人は英語ができない」というレッテルを貼られてしまうが、潜在的能力を含んだらそうもいえないのではないだろうか。
たくさんの言語を話せる人に出会うと「脳の構造が違うのか?」とすら思ってしまうが、考えてみれば日本語の中にだってたくさんの言語があってすべて使いこなすのは難しい。外国人を前にして日本語から英語に切り替える瞬間と、目上の人を前にして普通語から敬語に切り替える瞬間の感覚は同じである。多種の文字を覚えたり、敬語の使い方を覚えたりするのに何言語も習得するのと同じような労力を使っていると考えたら、日本語しかしゃべれないのはちっとも恥ずかしくないし、バイリンガル、マルチリンガル的な要素だってちゃんと持っていると考えられる。
別にマレーシア人に比べて日本人が優れている、と主張しようというのではない。「日本語英語」がばかにされるのは、「進んだ」日本に対するコンプレックスの裏返しという側面も無視できない。ただ、努力する必要はあれ卑屈になる必要はないと思うのだ。日本語だけだって多種多様であるし、日本語に引きずられた英語だって立派な英語のバリエーションである。マレーシアの言語の多様性から、「強気に出る」ということをひとつ学んだのであった。
お祭りのためにおめかししたインド系の少女
(インド系のことばもタミル語やヒンドゥー語など多様である。)
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