【Fami Mail】 特別寄稿連載  
 
『噛めば噛むほどYale − 胸の高さで見た景色』
〜目次〜 イェール大学留学記
*題名について
Yale University(イェール大学) 林学及び環境学スクール
環境科学修士&開発経済学修士
大司 雄介
<第5回>リサーチが進まない

 マダガスカルに来て、最初の3週間ほどの僕は、ずっと停滞状態にありました。
研究がいきなり軌道に乗ったかというと、決してそういうわけにはいきませんでした。

 言い方は悪いですが、カオスのかたまりのような国なので、予定通り研究が進まないのは、ある程度覚悟していました。でも、その度合いがまた凄いのです。

 その停滞の理由をちょっと紹介します(たぶん、これで読んでいる方にも、マダガスカルという国が、具体的にわかっていただけるのではないかと思います)。


バイクが動かない

  以前にも書きましたが、僕の研究のほとんどは、首都の空港で行われます。マダガスカルを訪れる旅行者のデータを集めるのが目的だからです。僕の滞在していた中心部から、空港までは25キロも離れていたため、なんとかして交通手段を確保することが、最初の仕事でした。そして僕は、大金をはたいて原付バイクを買ったのです。

 マダガスカルでバイクに乗るなんて、予想もしていなかったために、当然国際免許証も何も持っていません。しかし、これも当然のように、こういう国では免許証なんていらないのです(車を運転するには必要です)。

 しかしこのバイクが問題だらけで、買って一週間たったころから故障を繰り返すようになったのです。

 バイクは中古を買ったのですが、これを買った店というのがいかにもいかがわしいのです。路地裏を入ったところに掘っ立て小屋を建てて、そこでバイクを売っているのですが、店の裏は廃車置場になっています。つまり、街でバイクの部品を拾ってきては、それをつなぎ合わせて販売しているのです。
 日本ではニコイチ車(事故者などの部品を組み直して売ること。二個をあわせて一個にして売るから「ニコイチ車」です)を売ることは完全な違法行為なのですが、こちらではヒャッコイチ車でもオーケーらしいのです。

 バイクが壊れている間はバスで1時間半かけて空港まで通っていましたが、それでもデータは思うようには集まりませんでした。
 マダガスカルから海外へ飛ぶ飛行機の行き先は、ケニア、南アフリカ、モーリシャス、レユニオン、パリの五カ国のみで、本数自体も一週間に23本しか飛んでいません。この中で旅行者が最も多いのがパリ行きの飛行機なのですが、パリ行きは全て夜に出発するのです。そしてこちらのバスは、日暮れと共に運行を終了します。そのため、バスで空港に通っている以上、夜の便は全て諦めざるを得ないのです。

 そしてバイクが動かないという問題以前に、飛行機を利用する人がほとんど存在しないのです。6月はやはり西欧の旅行者にとっては、まだシーズンには早い。ビジネスの客はちらほらいるのですが、時には15人程度しか乗客がいない便もあります。僕にはまったく関係のないことでしたが、こんなので航空会社はやっていけるのだろうか、と心配になってしまいました。

 こんな理由から、往復3時間かけて空港に通い、一日に集まるデータは3〜5人分という日々が続いたのです。

 もう日々、頭痛の連続です。アメリカに帰って、指導教官になんと説明しよう、と心配になりました。

 

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バイク屋のおっちゃん

長距離バス(故障中)
バスがしょっちゅう故障するんだ、また


途中ででくわした牛たち
歩いて600`先の街まで行くそうです

手前がマダガスカル風パン
奥がバナナと呼ばれる食べ物

俺の行きつけの定食屋

アシスタントがいない

 マダガスカルで働く研究者は、全てマダガスカル人の学生を、アシスタントとして雇うことが義務付けられています。こうすることで、学生を金銭的に援助すると同時に、世界最先端の知識を、学生に伝えていくことができるからです。

 当然、僕にもアシスタントが割り当てられました。そしてこのアシスタントも、問題続きだったのです。当初、僕には二人のアシスタントがいたのですが、そのうち一人は、会った翌日に解雇せざるを得ませんでした。というのも、彼はほとんど英語が話せなかったためです。リサーチアシスタントは、研究の補助としての役割と同時に、通訳としても重要な役割を担います。僕はマダガスカルの公用語であるマダガスカル語もフランス語も話せないからです。しかし英語が話せないのでは文字通り「話になりません」。

 そして、もう一人の女の子も、一週間後には解雇することになったのです。
この学生は、非常に優秀でした(少なくとも行動を共にした5日間ではそう感じました)。英語も流暢に話したし、僕の研究の説明をしている時も、熱心にメモを取ったり質問をしたりしてくれました(ちなみに、もう一人の男の子の方は、僕の言葉がわからないためか、あくびをしたり、鼻をほじったりしていました。ほんとうに)。

 しかし問題は全く予想もしていなかったところから発生したのです。
それはバイクです。

 マダガスカルという国において、女の子が男の子の運転するバイクの後ろに乗るということは、すなわちその二人は「お付き合い」をしていることになるのだそうです。それに対して、彼女のボーイフレンドが許可を出してくれないというのです。

 これは正直、参りました。僕はここに旅行に来たわけではないし、ましてや女の子とデートするために来たわけではありません。しかし、それでも、僕の人生はここにあるわけではありません。一方、彼女はこの小さな街で、恐らく残りの一生を過ごしていかなければならないのです。僕のアシスタントをわずか三ヶ月勤めたせいで、彼女の私生活がめちゃめちゃになる、ということは、僕の望むところではありませんでした。

 それに僕は、マダガスカル人ではないから、ボーイフレンドじゃない男の子の運転するバイクの後ろに乗ることが、マダガスカル社会において、どれほど衝撃的でセンセーショナルなことなのか見当も付きませんでした(多分それほど大きな問題ではないように思ったのだけれど)。

 

言葉が通じない

 先ほども書いたように、アシスタントがいない、ということは、誰ともコミュニケーションが取れない、ということを意味していました。

 マダガスカル語と共にフランス語も公用語として話されているこの国では、英語を話す人自体が圧倒的に少ないのです。

 こちらでは、ホテルでさえも英語が通じません(少なくとも僕の泊まっていた安宿は)。僕のホテルでは、昼の間は多少英語が出来る女性が働いていたのですが、夕方に彼女が仕事を終えると、それ以降に働く人は、誰一人として英語が話せませんでした。

 夜にホテルのレストランで食事を取るとき、メニューは当然フランス語なので、僕はウェイターに「これはどんな料理ですか?」と聞きます。すると返ってくる答えは常に「ウィ、ウィ」でした(フランス語で「イエス」にあたる言葉が「ウィ」です)。

 だから、途中から、僕もセンテンスで英語を話すことをやめ、身振り手振りで自分の意思を伝え、その合間に「ウィ、ウィ」というやりとりが存在する状況でした。はたからみれば、霊長類の社会とそれほど変わりません。「アイ、ウィ、ウィ、ユー、サバ」といった具合なのですから…。

 

空白の時間

僕をブルーにさせていた理由は、精神的なところにもありました。

 マダガスカルにおいては、暇な時間との戦いが熾烈なのです。空港でアンケートを行っている間も、フライトとフライトの間に6時間の待ち時間があることもあるし、逆に昼ごろにその日のフライトが終了する日は、午後を持て余すことになります。そして土曜日と日曜日は、街中の店という店が休業します。

 僕がこちらに持ってきた本は2冊だけでした。そしてその本さえ、行きの飛行機の中で読み終えてしまいました(移動に50時間もかかれば、本2冊くらい読み終えてしまいます)。時々アンタナナリボの街で買うニューズウィークを除いては、文字情報が圧倒的に不足しています。トルストイの長編小説でももって来るべきだったと、僕は真剣に後悔しました。そしてこの空白の時間は、その時の僕にはあまり好ましい作用を及ぼしてはいませんでした。

 目に見えない何か圧倒的な感覚が、半紙にたらした墨汁のように、じわじわと、僕の心の隙間という隙間に入り込んできました。健全な精神が侵食されるようでした。
 それでも僕は、本質的に、後ろ向きというよりはむしろ前向きな人間であるし、大勢でいるときよりも一人でいるときの方が心が落ち着く人間であると思っていました。つまり孤独と対峙することには慣れていたし、そういう状態を好んでさえいました。

 しかしその時は、僕の心の空白が、目に見えない何かにむしばまれているように感じることが多かったのです。

 またこうした空白の時間は、僕にさまざまな問いを投げかけてきました。
日々のささいな問いではなく、もっと根源的で本質的な問いです。
 この三ヶ月が終わったら僕はどうなるのだろう?
 あるいはそもそも、この三ヶ月に終わりなどくるのだろうか?
 僕は今なぜここにいるのだろう?
 何をしているのだろう?

 また、日々すれ違う、貧しいマダガスカル人を見続けることも、僕に様々な感情を抱かせました。
 こちらは首都といえども、多くの家庭は電気もガスも水道もない家に暮らしています。多くの人が裸足です。多くの子供は半裸です。ここに人生の拠点を置く彼らと、そうではない自分の境界線を意識しないわけにはいきませんでした。絶望的に深く、決して超えることの出来ない境界線。

 その一方で、毎日毎日、同じ生活を繰り返していると、単なる訪問者としての自分の中にある「非日常性」と、ここで生活を送る者としての「日常性」の境界線がぼやけてきます。
 しかしそのあいまいな境界線を心に抱いていても、街を歩けば、圧倒的な貧困の非日常性が僕に襲い掛かってくるのです。路上で生活する子供たちが僕にまとわりつき、お金をねだったり、僕のリュックサックのポケットに手を突っ込んだりするたびに、僕はひどく不安定な気持ちになりました。そして運命の偶然性と、絶対性を考えないわけにはいきませんでした。

 僕が日本に生まれ、それなりの教育を受け、大学院で学んでいるという事実は、すなわち、僕が世界の中では相当恵まれた部類の人間であることを意味しています。しかし僕が恵まれているのは、僕が彼らよりも人間的に優れているためではありません。同じように、彼らが路上で生活しているのは、彼らの知力や人間性が、本質的に僕より劣るとかそういう理由ではないのです。絶対にないのです。

 裸足の彼らと、毎朝暖かいシャワーを浴びる僕との違いを決定付けるのは、ただ単に僕が日本に生まれ、彼らがマダガスカルに生まれたという偶然性だけなのです。
 しかしその偶然性が支配する残りの人生は、悲しいほどまでに絶対的です。彼らのほとんどが、現在と同じ状況で人生を終えることになると思います(それは僕の望むところではないけれど、かなりの確率においてそういう結末が待っていると思います)。

 そういう彼らが、僕に金をねだるたびに、僕はそういうことを考えないわけにはいきませんでした。しかし、僕は彼らにお金を渡すことは、ほとんどしませんでした。
 5円、10円程度の金を渡すことは、僕にとっては何でもないことです。でも、僕が渡したお金で彼らが得るのは、ビスケットひとかけらくらいのものです。その一方で、僕がお金を渡すことによって、彼らが「外国人に金をねだればお金がもらえる」という意識を持つことが嫌だったのです。お金を渡すことで、働くことの必要性、大変さ、喜びを彼らから奪ってしまいたくなかったのです。お金を得るためには、汗を流さなければいけないのです。

 更に言えば、僕がお金を渡した瞬間に、与える者と与えられる者の上下関係が決定付けられるような気がしました。偶然性にしか支配されていない運命なのに、そういった絶対的な上下関係を自ら作り出すことが嫌だったのです。

 こんな理由は、先進国から来た僕の自己満足に過ぎず、彼らにとっては無意味なのはわかっていました。彼らが今必要としているのは、僕のそんな理論ではなく、5円、10円の金だということもわかっていました。でも、僕にはできなかったのです。

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抗マラリア

 僕を精神的に不安定にさせていたのは、こうした環境だけではない(と思います)。

 マダガスカルで三ヶ月生活する僕は、エール大学の保健センターから抗マラリアの薬を飲み続けるように指導されていました。

 そしてこの薬の副作用が強いのです(アメリカの薬は、だいたいにおいて、効き目も副作用も強い)。その副作用の一つに『おかしな夢を見る』というのがあります。薬のパッケージにも本当に書いてあります。

 そして僕は、毎日のようにおかしな夢を見続けました。交通事故で死ぬ夢。見ず知らずの男に拳銃で頭を撃ちぬかれる夢…。夜中に突然目覚めることが何度もありました。
 僕は途中から、薬を飲むのをやめました。

 こうした様々な、現実的、精神的、形而上的理由によって僕は、いささかへこたれていました。

 しかし、悪いことは重なり、良いことは重なるものです。こうした最悪の時期を抜け、僕の研究が動き出す時期は、すぐそこまで来ていました。


 

2004年2月16日

つづく


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